「おはようございます」


部屋に入ると其処には既に身を起こした彼の姿が。寝台上でぼんやりと中空を眺めていた彼は、声を掛けるとゆるりと此方を向いた。

「今日はとても天気が良いようですよ。せっかくですから午後から出掛けましょうか」

寝乱れた髪を梳き直しつつそう問うてみると、彼はしばしの逡巡の後ゆっくり頷いた。髪を整えてからそうっと頭を撫でると、僅かに口の端が緩む様子が感じられ…けれど以前のように面いっぱいの笑顔を見ることは叶わない。






――アリババくんは言葉を失ってしまった。






原因は私が持ち帰った魔法道具。一か月ほど前、シンと共に少々遠方に出掛けた際に露店に立ち寄った。そこで見つけた銀細工。小さな籠の中に更に二回り小さい鳥が一羽佇む形をとった、非常に精巧且つ繊細な細工物だった。露店に並ぶには珍しいソレにいやに惹かれ、一瞬頭に過ぎった金色の少年…アリババくんへのお土産として購入した。
陽光の下できらきらと光る様は彼の少年を思い起こし、ふっと知らず口許を緩めているとシンに笑われ気恥ずかしい思いをした。彼は喜んでくれるだろうかと考えつつ、帰り着いた際にはきっと頬を紅潮させ、まるで花開くように笑って自身を迎え入れてくれるだろう…そんな先を思っては逢瀬を待ち焦がれた。




それから三日後、夕刻に書簡を積んだ船で帰国し、それぞれへの報告と儀礼的な挨拶を済ませた後に彼の元へと向かった。いつもよりやや速足で、どれだけ自分は必死なのだと僅かに苦笑しながら廊下を進んでいった。シャルルカンに受けた報告では先程まで剣術の修行に勤しんでいたらしいが、どうにも集中力を保てていなかった彼に灸をすえる意味合いで以て昏倒させたらしい。それを聞いて流石にやり過ぎではないかとも思ったが、その後に続いた「修行に没頭出来ない位、ジャーファルさんの帰りが楽しみだったんじゃないですかぁ」の言葉に何も言えなくなった。そうして昏倒させられた彼は今自室にいるらしい。寝台に寝かされたようだが、いい加減そろそろ起きてるでしょうよとシャルルカンが笑っていた。果たしてそれは大当たりで、彼は寝台から身を起こしてぼんやりとしていた。どうやらちょうど起きたところのようだ。これはタイミングが良いのか。ぼんやりとしている彼は扉を開けた自分に気付いていないようで。とりあえず認識してもらわないことには始まらないと、なるたけ驚かせないよう柔らかい声音を意識する。

「アリババくん」
「、え?…ッ!?じゃ、じゃーふぁりゅッ」

ガチンと音が聞こえた。…あれは痛い。驚かせないようにと配慮はしたがしかし意味は無かったようだ。声を掛けた後こちらに視線を向けた彼は瞳をいっぱいにまで見開き、意識が追い付いていない状態で口を開いた。衝動に急かされた結果、見事に彼は舌を噛んでしまったようだ。両手で口許を覆い琥珀の目を潤ませる彼に寄り、そうっとその両手を外した。窺うようにこちらを見上げてくる彼に笑みを落とし、ゆっくりと淡くも艶やかな唇に指を添え這わせた。ぴくりと小さく肩を跳ねさせた彼を見下ろしつつ、数度唇を指でなぞってから声を掛ける。

「大丈夫ですか?」
「え、は、はい」

ひりひりするだろう舌を思いつつ、いっそこのまま指を口の中に突っ込んでやれば彼はどんな顔をするだろう…そんな意地の悪い考えが過ぎった。きっとまた驚きに目を見開き硬直してしまうだろう。それから一瞬置いて赤くなるだろうか。何にせよ可愛らしい顔を見せてくれるだろう。案外痛み熱を持つ舌にとって自身の冷たい指は気持ちの良いものかもしれない。元々体温の低い自分にとって、心身共に熱を昂ぶらせる存在である彼は陽光のような存在だ。愛おしい。愛おしくて仕方がない。

「あ、の」

思考に沈んでいると遠慮がちに声が掛けられた。ハッと意識を現実に引き戻す。嗚呼いけない。彼は急に押し黙ってしまった自分を心配そうな目で見ていて。

「すみません」

何でもないと苦笑すると、途端にほっとした表情をする彼。いつもいつも素直にあるがまま、心が向かう先を表情が辿って。彼の一挙一動を目にする度に胸に広がるあたたかな波紋。彼は知らないだろう、それこそが自分を癒していく光なのだと。笑ってくれるだけでどれだけ…どれだけ世界が優しいものだと思えるか。
最後にもう一度だけ彼の唇をなぞってから指を離す。名残惜しいが、今はそれよりも欲するものがある。そんな私の心を読んだかのように、一呼吸してから彼は言った。


「おかえりなさい、ジャーファルさん」


想像していたどんなものよりきらきらと輝く笑顔で。


「…ただいま、アリババくん」


そうして彼を引き寄せ、唇を合わせた。












「これなんですか?」


しばらく会えなかった反動か、反省しなければならないほど無茶を強いてしまった。小さく溜め息を吐いていると、不思議そうな声が隣から聞こえてきた。そちらに目を向けると彼の手にはあの銀細工が。今の今まですっかり忘れていた。

「アリババくんへのお土産ですよ」

良ければ貰って下さいと口にすると、案の定本当に良いのかとぐるぐる考え始める姿がひとつ。けれど最後にはありがとうございますとはにかみながら受け取ってくれるのだ。

「すごく綺麗ですねこれ」
「露店で見付けたものなんです」

一目で気に入って購入したんですよ。
露店ではなかなか見ないものですね。
そんな風にのんびりと言葉を交わしていく。今日一日休みを貰って良かった。ゆるゆると過ぎていくように感じる時間でも、彼といるとほんの一瞬きのようで。楽しい時間は早く過ぎるということか……いや、結局は幾ら時間があろうとも足りないと思ってしまうのだろう。

「あれ?これ何でしょう」

彼の髪を梳いていると、そんな不思議そうな音が紡がれた。

「どれですか?」
「ここの…何か紋様みたいな」

彼が指さす先を見てみると、なるほど確かに籠の裏に何か紋様のようなものがある。黒いインキが擦れたようなソレにアリババくんが指で触れた…その瞬間、


「ッ!?」


室内が突風の嵐と化した。目も開けていられないほどのそれにしかし、彼だけは離すまいと胸にしっかりと抱き込んだ。時間にして数秒、然程長くはない嵐は終わった。恐る恐る目を開く。たった数秒間の出来事とはいえあれほどの風に見舞われたのだ。さぞや部屋は酷い有様になっていることだろう。片付けの算段を頭の片隅で立てながら周囲を見回した。


「?」


だがいざ状況を確認してみても、室内は目を閉じる前と何一つ変わりなく。どういうことだとしばし茫然としていたが、ハッと未だ抱き込んだままの人物に思考が至る。

「アリババくん!」

大丈夫ですかと言葉を掛ける前、こちらを見上げた顔に安心する。良かった、どうやら怪我一つも無いようだ。ほうっと息を吐いていると、ふいにぎゅっと衣服を握られた。どうしたのかともう一度彼の顔を覗き込むと、震える瞳がこちらを見ていて。ぱく、と開閉された口。だがそこから音は聞こえなくて。


「…アリ、ババくん?」
「………」
「待っ、て下さい。冗談ですよね?」
「………」
「アリ、っ」



遠くで鳥の鳴き声が聞こえた気がした。












―その日から彼の言葉を聞いた者はいない。そう、ただの一人だって。


直ぐにシンやヤムライハに相談した。解決策だって探した。けれど色好い答えも策も得られず今日まで来ている。


「まだ解決出来ないと決まった訳じゃない。それに言葉を紡げないだけで他に支障も無いようだし、今はとりあえず様子を見ることにしよう」


それがシンの出した答えだった。他の者も特に異論は無く。アラジンとモルジアナだけが何かを言いたげにしていたが、誰でもないアリババくん自身がそれに頷いたため、二人も納得はしていないが今はまだ様子を見ることに決めたようだ。…けれど私は。


シンは言葉を紡げないだけだと言った。
言葉を紡げない、“だけ”?


だけとは何なのか…いや、分かっている。シンがそんなつもりで言った訳ではないと。悲観するのではなく、希望を見ろとそう言っていること位。分かっている。分かっている。分かっている。…だが頭で分かってはいても、そんなの。




『おかえりなさい、ジャーファルさん』

(アリババくん)




私の所為だ。
ぼろりと剥がれ零れ落ちていくのは声か心か。
ぎちりと噛み締めた唇からは赤い血が溢れ、彼を辿った指には感覚が無かった。








それから私は仕事の合間に…いや、合間にしていたものこそ仕事だ。人が時間が許す限り彼の側に在るようにした。彼が話さない、話せない分私が話し、そうして今日のように天気が良い日は外へと連れ立って出て行き。街へ森へ庭へ海へ。彼の手を引いて歩いて行くのだ。
勿論希望を可能性を捨てるつもりはない。今もヤムライハに解決の糸口をあらゆる方面から探ってもらっている。いつかもう一度…もう一度彼の声を聞けることを信じて。



『ジャーファルさん』




















声にならない願いこそ、どうか届くように。
響く鳥の鳴き声を背に、私は今日もアリババくんの手を引いていく。